幼少期から通院再開までの人生録を年代別でまとめました。
家庭環境のページもあわせてご覧いただけますと幸いです。
中学生以降は過激な内容も含まれます。
苦手な方、精神状態が不安定な方はブラウザバックしてください。
語尾は丁寧すぎると長くなってしまうため、統一されておりません。気になるかと存じますが、ご理解の程よろしくお願いいたします。
「読んでも大丈夫!」という方は、右下の「V」を押してご覧ください。
★幼稚園時代
年中では、幼稚園になじめず、不安から「おなかが痛い」ということが定期的にあった気がする。
4歳頃から、人との接触が増え、幼稚園での不安や緊張と家庭環境により情緒不安定になっていたと思う。
年長は、担任の先生が明るく元気な方で幼稚園へ行く不安は減っていった。しかし、家庭環境が原因で心は病んでいく。
★小学校時代
成績表をみながら思い出してみようと思う。
低学年の頃は、人見知りもあり友達も少なかったように思う。
1年生の頃、放課後にこっそり教室を1人で掃除する変な子だった。掃除した理由も「残ってたゴミを綺麗にしたかった」というだけ。机も全部移動させて、ガッツリ掃除した。先生にバレてしまい、褒められたけど複雑な気持ちだったことを覚えている。
今思えば、躁状態だったのではないだろうか。
2年生の頃の記憶はあまりなく、授業で描いた絵が、市?のコンクールで入賞したけど、親の反応が薄くて悲しかったことくらい。
3年生は学級委員を初めて経験した。これをきっかっけに毎年学級委員をするようになったと思う。
小心者なのに、積極的にやりたがるタイプだとは思う。
1~3年生の頃は明るく、真面目で学習態度も良く、朗読や掃除が褒められていた。(掃除好きだったんだな・・・)
しかし、4年生の担任との出会いで激変する。
4年生で明るく楽しい担任の先生と出会う。1~3年は真面目な雰囲気の先生だったが、優しそうな先生に代わり、授業中にふざけたりするようになった。親は自分を見てくれないと感じて辛かったのもあり、「自分を見て!かまってほしい!」という欲求がでてしまったのだと思う。2学期は「私語が多く周囲に迷惑をかけることがある。」と通知表に記載されていたが、なぜが2学期が一番成績が良かった。小学校生活で一番楽しかった一年だった。
5~6年生は同じ担任の先生だった。いつも棒を持っていて、厳して怖いけど優しい先生だった。4年生とは違い、授業中に悪ふざけをすることはなくなった。私が友達を傷つける発言をしてしまい、教室内で立たされて、みんなの前で説教された。説教されている間、ずっと咳をしていた。ストレスで咳がでるようになったのは、このときからだと思う。マラソン大会で上位に入ったり、学級委員や児童会役員として活動したり、真面目で活発に過ごしていたが、6年生の2学期から「落ち着きがなかった」と通知表に記載されるようになった。歳を重ねるほど、家族関係の影響で情緒不安定になっていき、学校生活にも影響がでていたのだと思う。部活では顧問にボールを投げて怒られることがあった。悪いことなのですが、顧問から「どうしたの?何かあったの?」と聞いてほしかったのだと思います。苦しいことを誰かに打ち明けるきっかけもなく、勇気もなく、誰からも心配されることはなかった。特別学級の生徒に叩かれても「感情がうまく表現できないから、わかってあげて。」と・・・他人のために我慢することを要求されるばかりで、「誰も自分を見てくれない」と強く思った。小学校を卒業する頃には「元気で明るい」仮面をかぶることがしんどくなり、家が帰りたい場所ではなくなっていた。
★中学校時代
1年生の頃から「落ち着きがない」と記載され、成績にも波がでるようになる。この頃には、人生に絶望するほど精神的に追い詰められていき、祖父をこの世から消すことを考えるようになる。運動部に入ったが、同じ部活の生徒からトイレ掃除中に水をかけられ、部活を退部する。その子は悪ふざけの延長だったようで謝罪もしてくれたけど、チームワークが必要な運動部で一緒に続けることはできないと思ってしまった。その後は文系の部活へ入り、友達ができた。個性的なメンバーで卒業まで楽しい部活生活を送る。
2年生の担任は個性的な方でした。転入生の紹介で担任が楽しい雰囲気にしようと面白おかしく紹介をしたところ、生徒はみんな笑っていましたが、その子はきっと傷ついたんだと思う。学級委員だったので、その子が登校できるよう声掛けをしたが、学校にはこなくなってしまった。また、担任から「朝の自習の時間で話した人は全員廊下にでろ!」と言われ、私はわからないところを質問してしまったので廊下にでたら、「学級委員だろ!」と叩かれたり。いろいろありましたが、担任から「生徒会役員をやらないか」と声をかけられ、2年の途中から生徒会の活動が始まりました。
通知表には長文で「もっと努力するように」迫るようなコメントが記載されました。許せなかったのは「”自分が知っている自分”で、自分を判断して楽に生き、あまり充実していないのではないですか。人はそれぞれ自分の能力適性に合った仕事・生活をしないと、本当の意味で充実しないのです。自覚を!」というコメントです。「自分のことを棚に上げて何を言っているんだ!」と思いました。担任はコンプレックスを抱えている人だと思っていました。通知表を改めて読んでみると、悪いところを指摘して諭すようなことを言って、気持ちよくなっているような人間だったのではないか?と思ってしまいました。
この頃だったと思います。夜中に包丁を研いで、祖父の枕元へ静かに向かったのは。でも、私は弟のことがとても大切だったので、実行後のことを考え、思いとどまることができました。
3年生は、通知表を紛失したようで学校生活の記憶を振り返るヒントがないので簡単に。担任は生徒にあまり関心のある人ではありませんでした。生徒を殴れないので壁なぐってケガするような先生でした。学内で不良たちが大暴れして、教員は対応に追われていました。教室に花火が投げ込まれたのは印象的でした。でも、不良グループの中に友達もいたので、とくに怖いともなんとも思ってなかった。「ブス」と言われても「ブスだもん」と返して終わるような感じで、悪口に対しても軽く返すようにしてた。でも、鞄を盗まれて男子トイレに放置されていたとき、担任から「鞄を廊下に置くのが悪い」と言われたことだけは今でも思い出してはイラっとします。言いたいことはわかるけど・・・釈然としなかったです。こういうことの積み重ねで予防線を張る性格になっていきました。やがて、進路を決める時期となり・・・テスト勉強を2週間前から始める性格なのに受験勉強には身が入らず、親の指示のとおりに学費の安い高校(女子高)へ進学することになった。
★高校時代
1年生では、仲の良い友達ができた半面、放課後に屋上へ続く階段へ呼び出されるという漫画のような展開もあり、なんとも言えない生活をしていた。
2年生は入試の成績が良かったせいで強制的に特別クラスとなり、成績が悪いと怒られ、前方の席で先生の唾を浴びる生活を送る。美術展があり、クラスの出展作品を作ることになったが、誰も作る気がなく、ほぼ1人で作成するという・・・みんなに協力を求められるような性格ではないのも原因の1つである。疲れていたのか、ガラスの窓のついた収納にぶつかりスカートが破けるという事件が!いつもは怒られないようにスカート丈を長くしていたが、その日は破れたところが隠れるようにスカートをまくりあげて、ミニスカートにしてウキウキしながら帰った♪
3年生は特別クラスを拒否して一般クラスに。成績で怒られることはなくなったが、友達関係がうまくいかず、修学旅行も辛かった。3年生は担任が2回変わり、3人目の担任は贔屓の激しい人で、何人も生徒が泣かされてきた問題のある人でした。
大学進学は親の指示に従い、指定校推薦可能な学校で、家から通えるところを選ぶ。(我が家は弟の学費が最優先)母から学校に提出する受験料を受け取ったときに「領収書」の話をしていて、担任に「領収書はありますか?」と聞いたところ激昂され、「信用できないのか!」と怒られました。母にそのことを話したら、「そんなことは言っていない」と言うのみで、傷つく子どもを慰めるような言葉はありませんでした。
それからは担任に何度も呼び出されては怒られ、「お前の指定校推薦なんて出さなきゃよかった!」と言われました。教室に戻ってから「昨日、自殺しちゃえばよかった!」と叫んだのを覚えています。
テストの点数が悪く居残りで再テストをするようなこともありました。しかし、私を知っている他の教員が気にかけてくれて優しく声をかけてくださいました。
ある日を境に担任が私を誉めるようになりました。教室内に文化祭の掲示物が残っており、私が一人で剥がしているところを担任が見ていたようです。その行動を誉められ、今度は褒めるために呼び出されるようになりました。行動に関心したのか、私が自殺するかもしれないと言われ態度を変えたのか・・・理由はわかりません。
私が父に「殺してやる!」と言い、父に「殺してみろ!」と言い返され、母に「やめなさい」と怒られたのは高校2年生か3年生の頃だったと思います。祖父が亡くなった後だったことだけは覚えています。
★大学時代
毎日のように体調が悪く、情緒不安定で自殺を考えることが多くなり、何度も保健室に通うようになる。心療内科の受診をすすめられ、薬を飲み始める(精神病の治療開始)。「自分には存在価値がないんだ」と強く思うようになり、愛情に飢え、恋愛もうまくできない日々が続く。弟が歯学部または薬学部に進学したいと言い、私は短大から4年制大学への編入は諦め就職することに。精神病は悪化し、とても就職活動ができるような状況ではなく・・・。担任との面談で「進学を選択しない理由」を伝えていたので配慮してくださったのか、担任の先生が就職の推薦書を書いてくださり無事就職。精神病で出席できない授業があったものの、成績だけはそれなりに良かったが功を奏した模様。
★初めての社会人生活
短大卒は新人研修がなく、いきなり業務が始まる。真面目な性格のおかげで、先輩や上司から信用を得られたことは嬉しいのですが、仕事が増えることにつながりました。自分のキャパシティをオーバーした状況が長く続き、限界を迎え退職しました。(当時の状況は「お仕事経験談」で記事にする予定です。)
★療養生活
退職後、自分に合う医師に出会うまで精神病院を転々とする療養生活(ニート生活)が始まる。WEBサイトをつくったり、ラジオ配信をしたりと独学でいろいろなことにチャレンジする日々。一見、元気そうに感じると思いますが、自分の中のたくさんの人達と話をしたり、自傷を繰り返し、何度もODで自殺を試みました。OD後、夜中に目が覚めたら体が思うように動かなくなったことがあり、後遺症に対する恐怖を感じてからはODをしなくなりました。
ODをしても救急車が呼ばれることはなく、母親に「また薬飲んだの?」とだけ言われました。父は精神病で入院をした経験もあるので、父なりに気をつかって声をかけてくれました。ただ、父は相手に不快感を与える表現をする人なので、結果的にケンカへ発展することが多かったです。
「自殺が失敗したから、今がある。」そう思うようにしています。現在は自傷行為もしていません。なんとか我慢できるようになりました。
★ニート脱却
お仕事経験談に記載しています。
★結婚生活
いろいろとありすぎて・・・書きにくいことが多いので簡潔に。結婚した理由は「これまでのことは絶対に許せない!被害女性がでないように結婚して監視・教育しよう!」です。十数年間、ゆっくり時間をかけたことで教育の成果はありました。「相手が嫌がることをしたらいけません」からですから・・・年上の夫を赤ちゃんだと思って、たくさん愛情を注いで育てていく決意をしました。今でも傷つくことはあったり、包丁をぶん投げたくなることはありますが、辛いことは年々減っています。夫と出会ってから20年近く経ちますが、今が人生で一番幸せだと思います。
「過去を振り返る」は以上になります。最後までお読みいただき、ありがとうございました。